昭和47年01月05日 朝の御理解
御理解 第53節
「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」
だんだん信心をさせて頂いて、今まで気付かなかったおかげ。又は全然おかげではないと思うておった事。そういう事がおかげであると解らして貰う。所謂知ったおかげよりも知らぬおかげの方が多いと言うおかげを分かって来る所に有り難い有り難いと言う、勿体無い勿体無いと思わしてもらえれる世界が私どもの心の上に広がってくる。ですからいつもが言うなら有り難いと言う事になる。
私、金光様のご信心は、天地の親神様は、教祖金光大神にここの所を分からせたい為に金光教が生まれたと、例えば言うても良いぐらいだと思いますよね。天地の親神様が、教祖金光大神を通して、ね、金光大神、世の中の難儀な氏子にここを分からしてくれと。ね、ここがひとつ分かれば人間は幸せになれるぞと。とまあ、極端に申しますとね。そういう大変な意味を持ったこれ御理解だと思いますね。
神様が、言わば人間が助かって行くという事を願いとなさっておられる。その人間が助かるという事はです。知ったおかげよりも知らぬおかげの方が多い。その多い方のおかげをおかげと分からして貰えれるという事なのですから。しかもあれもおかげであった、是もおかげであったと分かる様になると言う事なのですから。ですからあれもおかげであった、是もおかげであったと分かる様になると、とこう仰っておられる事は、もう実は言うたら、あれもこれも一切合財がおかげだと言う事なんです。
言うならもう神愛の他にないと言う事ないと言う事です。ですからそこが分からしてもらう時に、例えば降ろうが照ろうが、ね、自分の都合の良い事だけをおかげと思うておる。それではね、所謂自分の都合の良い知った、出てきたというかね、分かった所だけをおかげと思うて、それと反対の事はおかげではないように思う。ですからあれもおかげ、これもおかげと言う事が分かるという事は、もう極言すると一切がおかげだという事を私どもの迷いが強い。私どもが我情我欲がいっぱい。
その為にそれをおかげと感じきらないだけの事なんだ。そこで私共がです所謂、迷いを取る為に真の信心をしなければならんのであり、おかげをおかげと分からして頂くために信心しなければならないという事になる。自分の心から我情が取れて行く。我欲が取れてくる。限りない言わば、心の清まりを頂いていく。ね、そういう例えば、心の状態に映じるもの、その心の目に映るもの。もうすべてが神愛。すべてがおかげ。それもおかげ、これもおかげと言えれる心の状態が開けてくる。
これはもう実感としておかげと感じられる。だから、有り難い事ばっかりという事。実を言うたらそれなんだ。それが本当なんだ。けれどもその本当な事が、本当として分からないのはこちらの心の状態が本当でないからなのであります。もうそれだけですよ。金光様のご信心は。ね。昨日、久保山先生の5年の式念祭が、それこそ何と言うでしょうか。今までかつてあんな霊祭を奉仕した事がない。もうほんとに、いわゆる、神様が喜んでくださる程しの霊祭であった。
普通ではああ御霊様が喜びなさるような霊祭。なおいいですね。ああ御霊様が甘い物が好きじゃったから、辛い物が好きじゃったからと言うて、まあ親戚一同知り合いの者が集まってお祭りを奉仕する。勿論それも出来ておっただけではない。もう神様が喜んで頂ける頂くような霊祭であった。神様がだから喜びなさらんはずがない。御霊様が。ね。5年前にまあ言うならああいうひどい事、まあ言うなら惨事と言うてもいいかもしれない。しかも一日椛目の時代御用頂かれて、その帰りにあんな事故にあわれたと。
これがどこを押せばおかげと言えるかと。信心しよってこういう事が起きてきた。けれども私はあの時に、告別式の時に皆さんもお参りでしたでしょうから、ご承知でございましょうけれども、これは絶対おかげだと私が言い切って皆さんに聞いてもらって、挨拶の中に申しました。その後の遺族の方達の、または、その周辺の人達がいよいよほんとな信心に、まあ奮い立っていかれたという事実から言うてもです、いかに久保山先生の信心が言うなら本当は物であったかという事。
昨日、朝のお届けを終わらしてもらって、控えに下がっておりましたら、光昭がやってまいりまして、丁度、久保山さんも私に髭を(?)当たってくれるために来合わせた、まだ帰らんでおりました。繁雄さんと高橋さんと。がしておるところへ光昭がやって来てから、僕は今朝からお夢を頂いた。そして、ようとお届けしとかなければと思うてから、と言うてその。どういうお夢を頂いたかって言ったら、家のあの、鯉が沢山泳いでおりますね。泉水であれがあの泉水らしいんですけど、それが大変大きい。
しかも中に噴水がある。その噴水がこうその滝のように噴水してる。その下に丁度親先生が座って水行をなさっておられる。その周囲には、菊栄会の方達が皆一緒に修行をさして頂いておる。水行をさして頂いておる。それをね、もうそのところを、ありありととこう言うております。もうありありとああの生前の久保山先生の姿がねあって、それをじーっとものはおっしゃらんけれども、どう言うでしょうかね。あの見守っておられるという感じであったと言う。
それがあまりにもまざまざとしておったから、それは、今日が先生の式念祭だから、やっぱ光昭の上に、それをお知らせ下さったんだろうね。御霊様の働きをと、まあ申しました事でしたことでございましたけれども。もちろん、菊栄会というのは、ここである菊栄会という意味じゃないでしょう。それは勿論菊栄会が、まあ今後の合楽の信心の中心になって行くような方達のひとつのグループですから。けれども菊栄会と言う事は、合楽全体の事だと思いますね。の信心をねしっとるもんは持っておられる。
もうそれはね、久保山一家という事をというのじゃなくてね、そういうもう合楽全体の事。ね、言わば、私どもの信心を見守っておって下さってあるという事。ね。違ったら、ああそりゃ違うと言われるだろう。信心修行に怠っておるなら、さあ修行しないかとお気付けでもして下さるだろう。そういう例えば、先生が見守っておってくださる信心。または、期待して今後の合楽に期待しておって下さる信心。ね。はどういう信心になってくれよという願いを御霊様持ってござるだろうかと思います。
私どもはそうした、いくらもの尊い御霊様達のお働きと、ね、天地金乃神様の思い、金光大神のお取次ぎの働きというものを頂いて、何を頂かなければならないかと。私はもう一生懸命の信心の稽古をさせて頂いて、ここんところを分からしてもらう。その為にです、いわゆる我情我欲を取らなければいかん。限りなく美しゅうなる事に努めなければいけん。限りなく美しゅうなる事に努め、我情が取れ、我欲が取れてくるところに、いわゆるほんとの事が分かってくる。
いわゆるあれもおかげである、これもおかげであると分かってくる。ところがなかなか、分かっておりますけれども生身を持っておりますから、もうこんくらいのこつはわかっておるのだけれども、ね、分かっとらんような状態の時があるという事。実は私も、昨日、もう昨日は、総代の方と菊栄会の方達だけでございました。それに、特別先生に、まあじっこんにしておられたという方達が2・3.それにご親戚の方達でございましたが。総代幹部と言われる人達の中にです、ね。
これは名前を申し上げてもいいばってんまあ、これはその人一人の事じゃない誰も皆そうなのですから。ほんとに、合楽の中心ともならねばならない人達が、まあ人がね言うなら、こげん分かっとらんじゃろうかと言う事をです、私は昨日もうほんとに感じました。それから寂しゅうなりました。夕べ休ませて頂いてもその事がどうしても頭にあってから眠られんとです。とうとう2時半になった。それから起きてシャワーをかかりましてから、御祈念をさして頂いた。
ほんとに例えば今日のここんところが分かってるんですが、それもおかげと言う事が。けれどもその実際の所謂、心で解っとるのと頭で感じたり又はイライラ思うたり。まあどうしてこの位な事も解らんじゃろうかと。何の為に毎日参って来て毎日御理解頂きよるじゃろうかと言う事だったんですよ。実は。ね。まあこの人達が合楽の中心、もうこりゃもうつまらんとこう言う、思う位な大きなショックを感ずるぐらいな事でした。実際皆さんにその実際の事を言うたらまあ何でもない事かも知れません。
もう私に取ってはそんなに感じた訳です。そして床の上で御祈念さして頂いておりましたらね。私の心耳に響いてくる事。熊本に、熊本民謡に、おてもやんと言うのがありますよね。あんたこの頃嫁入りしたではないかいな。嫁入りした事はしたばってん、おてどんがくじゃっぺじゃんけん、まだ杯せんじゃった。っといったような文句でしたね。そこまで頂きました。もう頂いたとたんに、もうほんとに何と言うですか。迷いのくも言うですか、苦しい事っていうのが、苦しいどころか有り難うなってきた。
迷いどころかほんなっこそれが本当な事だった。本当な事が分かったらこのようにも心が楽になるものかというくらいにありました。ね、とたんに眠気も、もうそれから、もうあの、また3時半まで、ねちょっと3時半ちょっと前に今日起こして頂いたんですけども。ほんとにそれからグッスリ休ましてもらった。ような事でした。心にかかったり、心配事があるという。夜もロクロク眠れんちゅう事が、これは本当ですよね。だから心に喜びが出来、安心が出来るとそれこそ絶対グッスリ眠るです。ね。
だから信心によって本当な事が分かるという事。皆さんその歌の文句の詩で何を私悟ったか分かられるでしょうか。あんた嫁入りしたではないかいな。あんたは合楽に参りよるじゃないかいなと言う事じゃないかと思うんです。言うなら毎日。ね。毎日御理解頂きよるじゃないかいなということなんです。だから参りよる事は参りよるばってんということです。ね。嫁入りした事はしたばってん、おてどんという事は亭主と言う意味でしょうね。ご主人というでしょう。
嫁入りした事はしたばってん、おてどんがぐじゃっぺじゃんけんと言う所でですたい、私は、思いが至ったんです。分からせきらんとは誰かと。婿どんが言わばぐじゃっぺじゃんけん。例えばきりょうが悪いという訳でしょう。ね。お前自身が、成程皆さんの場合ですかね。まあ例えて申しますなら、ほんとに合楽に御神縁を頂いてです、ね、私の話を聞いて下さって、ほんとに例えば一年なら一年でも、本気で合楽は素晴らしい、親先生が有り難いとこう言えるほどしの事になってきたらです。
もう絶対こりゃもう、こりゃ例えですよ。改式しなければおられませんね。金光様の御信心は。昨日の事はほんなこつじゃないですよ。そん例えて申しますなら。いかに合楽が有り難いと言っとって、改式も出来とらんぐらいなら、まだ参りよる事は参りよるばってん、嫁入る事は嫁行ったばってん、まだ私が信じられないという意味なんですよ。ね。所謂おてどんがぐじゃっぺじゃんけん、いや改式しないのが悪いのじゃない。
させきらん方が悪いのであり、どうして分からんかっちゅうて分からせきらん方が悪いのであり、高橋正雄先生のお言葉じゃないですけれども、ね、見ること見ること自分を見ること。自分自身を見極めた時にです。誰じゃない彼じゃない、私自身がぐじゃっぺであるという自覚に立った時です、もう何時間いうなら寂しかった。また寝てから、寝付かれんほどしに考えた事がです、もう嘘のように、ね、それこそ霧が晴れるように私の心はすみやかに、清々しゅう。
それから寝れないどころじゃない、それこそグッスリ眠りすぎるぐらいに眠らせて頂いた。もう、すんなりそのくらいな事は、私いつも皆さんにも聞いて頂いて、分かっているんです。まあ、どう、こんくらいな事がほんとに、それこそ合楽の総代幹部とも言われる人達でこんな事が分からん。まあ、ほんとに残念だというただ思いだけが。ね。だからその残念に思うておる、その心の状態、心というものがです、残念どころか、分からせきらんのはお前がぐじゃっぺだからだということになるわけです。
しかしほんとに、生きた教えを頂きますと、人間の心はもうその場で助かるですね。確かに。どうぞ皆さん、私がね、ほんとにこれだけ合楽でご理解を頂き、これだけせっかく日々お参りが出来、信心、修行をさして頂いておってです、まあ言うなら私がです、ね、残念に思うような、はあこんくらいな事じゃ親先生が残念に思いよりなさるじゃろうと思う。みんなそうと思うて聞いて下さい。
そげん難しい事じゃない。ね。さあ、んそうだ、そうだとほんとなように思いよるけれどもです、んなら、私が言いよる事を本当の本当と思うていない。親先生が言いんしゃってることは私は疑うとる。だから、たったそのくらいな事が出来んのだ。と結論するより他にないのです。それでここです。私は、疑われると言うか、ほんとなもんではないと見られておるか。んなら、見られていないなら見られていない私自身がもっとほんとの物になる以外にないんだな。
もうこの人達の場合、どうこうと言うことじゃない。私自身が本当な事が分かる。私がもっとよりよりほんとな事の道に精進するより他にないなというようなことを思わせて頂いた。あれもおかげである。これもおかげである。理屈の上では分かってる。分かりすぎるぐらい分かっている。そして、大抵な事は、ほんとにああそれはおかげばいと言いよる。事実。けれども、さあ、昨日何時間かではあったけれども。
おかげをおかげと感じきらずに眠られんくらいにあったと言う事がです。まだまだ、いわゆるここんところをですね、ほんとな事が分からなければいけないなあ。ほんとの信者を、ね、分かるようになると真実の信者とは、真実の信者とは真実の信者と書いてありますが、ね、いよいよ真実な信者を目指さねばならんということをこれを本当に痛感いたしました。皆さんとてもやっぱし同じ事じゃないでしょうか。
どうぞ。